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2009 08,29 |
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原稿とは関係のない小ネタ曽芭
よく解らないお話ですが、よろしければご覧になってやってくださいませー そのやり取りへ及ぶに限って、河合曽良という男には、チョキかパーしか出そうとしない癖がある。 グーを忘れてしまったわけではない。もちろんのこと、ふたつまでしか手がないのでは三つ巴の遊戯など成り立たない。 だからきちんと覚えている。忘れてしまったというのではなく、ただ、出すことを選ぼうとしないだけだ。 河合曽良はグーを出さない。 松尾芭蕉とのやり取りにおいて、そこには彼のグーがない。 つまり、芭蕉がチョキを出したなら必ず勝てるゲームが繰り返されている。 そのはずである。 パーで挑めば負けるかあいこ、グーで挑めば勝つか負けるか、そしてチョキなら負けはなし。だいたいのところは推測されるのだ。 なぜなら曽良は、自らグーを出さないのだから。かたい拳を握らずに、開くか細めた掌で芭蕉に対して挑むのだから。 しかし彼らの決着はなかなか理屈通りにいかない。 なにせ芭蕉がこのような理屈に気付いていない。気付いていないものだから、普段には必ずパーでいる。 思うまま生きる彼の心は、狡猾に手を選ぶことなく、純粋にありのままでいる。その在り方がパーなのだ。 曽良へ対するのに、パーはよくない。パーで挑めば負けかあいこだ。やられてしまうか、上手くいっても一時の我が侭を通すだけ。そこには勝ちが生まれない。 勝てない芭蕉は膝を抱えて、甘えるように白い着物の裾へと頼りなくすがるのだ。 しかしそのような芭蕉とて、忘れてしまったわけではない。 ふたつまでしか手がないのでは三つ巴の遊戯など成り立たない。彼もきちんと、チョキという手とグーという手を覚えている。 けれども滅多に使えない。その点においては曽良と違って、出さないことを選び取ろうとしているわけでは、決して、ない。芭蕉にとってのそれらの手とは、容易く差し出すことのできないものなのだ。 チョキは水切り。決して曽良に劣ることのない、唯一たしかな切り札である。ところが当の曽良がこの手を、たいへん、まったく、気に入っていない。出そうとするとつぶされてしまう。だからどうにも難しい。 グーは、もちろん他でもなく、芭蕉の生業たる俳句である。曽良とて決して咎めない、最大にして最強の武器だ。ただし当たるとは限らない。外れをひいて俳句にもならないよく解らないものを詠んでしまえば。パーの平手にひとつ打たれてお終いだ。だからひたすら難しい。 それでも、出るときには出るものだ。みっつすべての手を知って、気ままに生きる芭蕉の在り方は、いつでも曽良に勝りうる。 曽良が拳を握らぬために。 彼のグーの手は、いったいどこで眠っているのだろう。あえて休ませ、出さないでいるのか。芭蕉と向き合っていくうちに、出せなくなってしまったか。それは切り札か。諸刃の剣か。 なにも定かではないままに、理屈通りではない決着を、ふたりは細かく繰り返す。 河合曽良は今日もグーを出さない。 なんかこう、グーだけないような気がして……だいたいそんな感じの電波 PR |
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